24週2日目

2015.12.15

高原の小部屋にいるとものを考え続けることができなくなってくる感じがする。
どうしてだろう、部屋が小さすぎて部屋の中を自分の体が満たしすぎている感じがするからだろうか。
時計を見れば時間は進んでいるのに頭と体は追いついていかない、というより時間の前後の感覚が狂う感じがする。
後も先もなく時間の流れが淀んで停滞しているような感じというか。
窓がなくて自然光が届かないせいで体内時計が狂っていくのだろうか。
頭の働きが鈍く固まっていって、時間の流れを知覚することができなくなる感じがする。
ずっと蛍光灯を浴び続けているせいかもしれない。
竹富島では夜はまっくらで、部屋の外を見ても街灯の光が全く視界に入らず
部屋の外に見える小高い丘になった見晴台のすぐ向こうにある海の気配と、サンゴの死骸で作られた石壁に囲まれていたせいか夜に窓を開け放すのがとても怖かった。

暗やみが空気の中に重たく充満していて、縁側から手や足を伸ばしたりでもしたらその部分だけ持って行かれてしまいそうな気がした。さぶろうが外の空気を入れようと窓を全開にした瞬間すぐに「窓閉めよう」と言ってしまった。
命が別の形に変化した「元生き物」みたいなものがわたしたちのすぐ側を行き来しているんじゃないかという気がする。
実家にいた頃に夜が怖かったことを鮮明に思い出した。
高校生になっても時々夜の家の外の暗やみが怖かった。妖怪、オバケ、ユーレーみたいなのじゃなくて、もっと生命力さえ感じるような元生き物がいるんじゃないかとドキドキしていた当時の感覚が蘇った。
京都に戻ってから、「となりの部屋に行った」というフレーズが頭の中に浮かんだ。
しょうこちゃんと死んだ人の話をしたり、出産や子作りについて話してたときに見せてもらった本に「私が死んでも、となりの部屋に移動して見えなくなっただけだと思ってください、どうか悲しまないで」というようなことが書いてあったのが印象に残っていた。
私のお腹の中の赤子も、いまはとなりの部屋という場所にいるのかもしれない。
でもそうなると私の体の中にそのとなりの部屋があるのかもしれない。
そこでいままさに赤子の心臓が動いていて、これから一人で生きるための肉体を得るために、体がとどまることなく変化し続けている。
今の時点では赤子がこのまま私と同じ部屋に出てきてしまったら自分の力だけでは生きられない。
彼、彼女は生き物なのか?死に者なのか。あいまいであわいに存在している。
すでに隣りの部屋に移っていった私の家族や、大好きだった人たちや、私の大切な人たちの大切な誰かは、このお腹の中の人と同じくらいにそう遠くないところにいるとは感じられないだろうか。
わたしはあの日の夜サンゴの元生き物に囲まれていたんじゃないかという気がしている。
住む世界が異なる生命体が一つの場所を同じように行き来して、それらに対する畏れや敬虔さを知らないとなんというか敵うようなものではないと、本能的に感じたような気がする。